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時計の中のパラドックス?

 

これは個人的な疑問で、本など一切読まずに書いた考えです。

面倒な話ので、興味のある方はどうぞ。

 

 

・時計の中で数字は数字として機能しているのか

・数字が文字に変わる瞬間

・二桁の数字が一桁の数字を超えないという現象

・12は1より大きいか

・12と1が対等な存在になるとき、時計の中の全ての文字が対等になるとき

・12と1の間

・12と1の関係

 

 

 

0から数字は〈大きく(多く)〉なっていく。

それは人間の脳の中だけではなく、見事にミクロとマクロの世界を表している。

 

ミクロとマクロの対象。

大きさの概念。数字はまるで絵のような表現。色と数字は友人。

 

しかし、時計の中において1よりも12の方が大きいというのは本当であるのか。

 

多いという概念。

少ないものと多いものは等しいものか。

 

 

 

時計に埋め込まれた1から12の数字。

12と1が同じ数字を含んでいることが既に不思議だ。

 

この時計という丸の中に収められた数字というのには、

多少(大小)があるのだろうか。

12は1より大きい数字と言えるだろうか。

 

一見、2文字に見える10や11、12という数字は

一文字だと考えればよいのだろうか。

 

だとすれば、それは平仮名やアルファベットなどの文字と同じで

一つの文字という捉え方が出来る。

 

そのとき数字という効力を発揮するのか。

 

そのとき〈数字〉と言うモノが時間を表しているのだろうか。

 

 

そのとき時間を表すのは、

(数字とは捉えられない)文字という概念と同じものが示すのだろうか。

もしそうだとすれば、数字として捉えているはずの時間は、

文字で捉えているということになる。

数字はただの記号になる。

 

 

数字と言う効力がなくなるということは、

時間というモノがある種の計算とは無縁の世界になる。

(例えて言うならひらがなをかけたりわったりするということ。)

 

 

想像上、数字の関わらない時間が存在する。

 

 

人々の概念では、1より12は〈多い〉(大きい)ものとして扱われている。

しかし、時計の針は12から進み、12へ戻る。

 

12から1へと移動するのだ(!)

 

時間は進んでいるという。

12の先に1があるというのは時計の中だけで、

本来12の成長(進行)が1を表すことがあるのだろうか。

 

その間には一体何があるのか。

 

そのとき12は1より多くはない。

(大きい=数が多い)

 

 

 

数字というのは、今のところ人の頭の中だけに存在する。

 

よって数字は広い宇宙と、思考の中でつながる。

 

そう、大袈裟に言うと、

数字でさえも世界に(目に見えて)存在していないということだ(!)

 

 

ローマ数字は一文字で、

C=100のように表す。それは人の思考の中で実現する。

 

 

証明は数字が具現化又は変身したものだろうか。

 

 

数字を意味があるものとして解釈(脳の変換)しなければ、

まず数字は形になる。

 

その形を図形に置き換える。

人型に置き換える。何か別のものにしてみる。

 

形であるから、同じ形を用いれば全て同じ形にすることもできる。

すると全てが等しい存在になる(ことができる)。

 

ということは、数字に差異はなくなる。

 

 

人々はそれぞれ時間の解釈をして、

上下や進行していることか何かを感じている。

(1時間をかたまりで解釈したり、感じたり。

その他にも色や空間、印象などひとそれぞれあると思う)

 

それは認識であって時間そのものではなくなる、だろうか。

 

人は時間を舐めているわけではない。

 

 

時間という、確かにあるが見えないものの差異を表す時計と言うモノは、

数字のみで表せられるものではない。

 

 

時計は数字に縛られない。

 

 

数字は絶対ではなくなる。

 

 

そのとき、確かに獲得したものが、

文学か何か抽象的な感覚の元へと数字は帰ってしまうのではないだろうか。

 

 

 

 

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