〈ストロウ〉孤独な回想

 

 

例えば、彼の持つジュースの缶。

銀世界の中、半分より上で波打っているということが秋介にはわかる。

 

今空を見上げた女性。彼女の丸いイアリングは弧のリズムを描いて弾いた。

電線に佇む小鳥は、ふさふさの頬にさわやかな風を吸いこませている。

 

人はそれを生きている(生きる感覚)と言うのだ。

果たしてそれは的を得ているのだろうか。

 

 

 

人や物の感覚を感じる(ことができる)秋介。

ある時、噂に聞いた〈陶器を持つ青年〉に興味を持って早速彼の家に行くが、

待っていたのは今まで出会ったことのない感覚の持ち主だった。

 

日常。

今秋介に見えているのは秋介のものではなく〈彼〉の日常だ。

それは世界であってそれ自体が生きものであるのだ。

 

〈彼〉は、それを飼う。(彼は知っているのだ)

ターンターンターンタンタ……。

 

確かな音が、弾けて、地面が音を、吸いこんでゆく。

まるくて、ぼやけたような紅いゴムボール。

印象的なのは床に接した時の扇型に広がる、ゴム製独特の音の形だ。

 

彼は腰を屈めてそれを片手で掴み、

顔を上げて背筋を伸ばして少し首を傾けゴムボールを時に離す。

再びターンターンターン、と虚しくそれは繰り返される。

 

これがこの部屋の音楽だ。

 

時に一定に、時に不規則に繰り返される。

映るのは仄白い手とボール、床と壁。

彼の斜め後方、両腕を広げたぐらいの窓の方にある薄型テレビにその映像が流れている。

母親によると、それは彼が自分で録画したらしい。

 

キツイはずの日の光は穏やかに部屋を満たしている。

彼は秋介が開けたドアの音にも、動いているのにも顔を動かさなかった。

 

彼は白いテーブルの向こうに座って、手に持った器だけを眺めているように見えた。

ゆったりと背を持たせかけて、両肘共にひじ掛けに置いて肩が上がっている。

その虚ろな表情はつまらないのでもないし、世界を憂いているのでもない。

 

秋介はしばらく彼から目を離すことが出来ずに白い光を浴びていた。

落ち着いて部屋を見渡すと、自分が座れるイスはないので立つか床に座るしかなかった。

 

彼はそこにいて、そこにいない。

よくありがちな精神障害というものだ。

けれど、実際は異常なんかではない。

彼の場合、彼しか見ていないモノがあるのだ。

 

それは今のトコロ誰にも分からない。

それは簡単にトラワレテいるという言葉で表せられるものではない。

彼には彼の世界がある。

 

どうして陶器を持っているのかなども想像するしかないが、想像出来そうにない。

彼はそんなことを想わせない。こちらを見ないはずのその姿が、その瞳がそうはさせない。

 

だんだんと、感覚が秋介の内に入り込んで感覚を撫でる。

無言のはずがそうではない。

 

ボールが地面を打つ音と共にジリジリと何かが聞こえるようだ。

それが何かあえて言うならば、埃が生まれた音であり、

陶器が釉薬の内でぎゅっと肩を抱いた音である。

 

それを彼はミテいるのだ。

 

まるで押し込められた土の中に見つけた輝く星を見ているように。

それに触れることによって音をキイテいる。

 

ボールの音は言うまでもなく心地が良いのだ。

彼の滑らかな触角を撫でていく。それが陶器と彼の喉をつなぐ。

その感覚は流れ星のように彼の腹の辺りですっと消える。

 

そのたびに彼の瞼は黒い瞳を舐める。

そうしてまた一点を見つめる。どこか知らない国を空から見るように。

 

その姿は優しくて貪欲だ。

(彼が目を動かすトキは、必ず陶器を強く握っている。)

 

 

私は彼の世界を知りたくない。

いや、知ってはいけない。それは彼のものであり過ぎる。

眩しくて直視出来ない太陽と同じ効力だ。

 

それでいて惹かれるのは彼の感性があるからだ。

美しい顔立ちのせいもあるかもしれない。

その眼光は鷹の目よりもスルドイ。エモノを見る目が。

 

愛しすぎるなんて言う言葉があるが、彼には甘い。

彼の場合、握り過ぎて感じすぎて彼の瞳も釉薬に染まっていて、

何度見ても違う色を映す。

同じ器を持ってしても、何十何百の色を引き出している。

 

その瞳が瞬きするたびに、陶器もまた心を解かされているのがわかる。

そんな彼の瞳と目が合ってしまったどうなるだろうか…。

 

彼は陶器を集めて愛でているわけではない。

その証拠に部屋にあるのは彼が手にする陶器だけだ。

 

彼は愛しすぎた後に、器に抹茶が立てられているかのようにそれに口を付けて喉を潤す。

 

そして顔が上を向いて喉がすっと伸びたところで

(目は開いていないようで開いている感じだ)、

まるで時が満ちたというように、陶器は手を離れてするりと透明な残像を描いて床を知る。

 

その後の彼は表現の仕様がない。

その感触には触れることが出来ない。

その内の千億の一粒に触れたとすれば、それは宇宙の始まりでもあるかのようだ。

 

人を知ることは容易い。

顔を見ればカンカクを撫でるようにして性格が分かってしまう。

しかし、人の感覚を知ろうとすることとは似て非なるものだ。

 

彼の世界は棘が剥き出なのだが、美しすぎる花々の庭園である。

 

その点、私の感覚とは透明なストロウなのだ。

感じるのは口の中、喉まででしかない。

 

腹の方で消化するというカンカクは、ないのだ。

〈彼〉のようには。