鏡のない村 ~ぼくの左手、鏡の右手~ 

 

辺りの小高い山には緑がなく霞んだ岩肌が剥き出しになっているが、

その分山々は目の前に広がる青々とした草原の空気を吸っているようである。

山の麓には路に沿うようにぽつぽつと木が並んでいて、

その一角にラクダ色の石で出来た四角い家が何軒か集合している。

 

そこから少し離れた場所に家一軒分の幅の河が

岩をかき分けて勢いよく流れている。

 

コソン村、そこは鏡のない村。

ロソロソ風が吹けば辺りにはこまかい砂が舞う。

 

そこに住む一人の少年タユは村に引かれた水路を一飛び出した。

短い黒髪がふわりと浮く。

 

足の速さを緩めて辺りを見回し、何本かオリーブの木を通り過ぎる。

息が落ち着いた頃、赤茶色の紙の少年が木の陰に座っているのが見えた。

 

「ラッカ、鏡をしっているか?」

「いや」

 

薄っぺらい冊子から目を離してラッカはタユを見た。

 

「これだよ」

 

タユは左手に持った四角い銀色の板を自分の顔の横に持ち上げた。

なんだこれはとラッカは首をかしげる。

 

「これが世に言う、全てを映すという『鏡』さ」

「これが?何が特別だっていうんだ?」

 

タユは鏡を両手で持って、ラッカの顔の前に出して見せた。

ラッカの顔をすっぽりと覆うそれには大きな瞳が瞬きが映った。

 

「今ここに君が映っているだろう?」

 

この村に鏡はないが、皆自分の顔を見たことがある。

雨の後の水たまり、水瓶の薄暗い水面、

運が良ければ静かな小川で見ることが出来る。

 

だからラッカは自分の顔がはっきりと映る鏡を

目の前にしても驚くことはない。

 

タユはそんな彼を楽しませようと、今度は鏡を持って地面に張り付いた。

 

「ごらんよ!この花や草もすべてそっくりだ。不思議だろう?」

 

鏡には所狭しと細い植物たちが身体を寄せている。

 

「なんだよ、それなら池でだって観れるだろう?」

「そうじゃなくてこの鏡というものがおもしろいんだ」

「それに映さなくてもそのまま見た方が、オレはいい」

 

ラッカが笑いもせずにいうので、

タユはつまらなくなって祖父の元へと向かうことにした。

 

「イーグル!これを見て下さい!」

 

タユは小さな小屋のような家の戸を勢いよく開けて鏡を見せた。

家に入っても、肩を大きく上下させて落ち着かない。

 

「何だ?これは」

 

イーグルは白髪混じりの髭に覆われた口をもごもごと動かした。

 

「鏡です!」

「ほお、鏡とな。己を本物のように映すという」

「そうです!そうなんです。ぼくは大いに感動しています!」

 

タユは目をしばたたかせるので、長いまつ毛がピンピン跳ねた。

 

「ラッカはそうじゃなかったけど」

「鏡を通して見るのがそんなに面白いかの?」

「それはもう」

「ちと貸してみい」

「はい、どうぞ」

 

ふむ、とイーグルは眉と髭で隠された目と口を顔の真ん中へ寄せた。

 

「わしはしわくちゃで、髪の毛も髭もぼさぼさ。

なるほど手で触れた通りの顔じゃな。まあそれだけのことじゃ」

 

タユはぼそぼそと話をするイーグルをずっと見ていた。

ラッカよりは話が分かると。

 

それからタユは来る日も来る日も鏡に釘付けで、

外へ出る度にとくに布にくるむでもなく持ち歩いた。

足の音とともに景色は変わっていく。

 

タユにとって目に映る世界よりも、

小さなみずみずしい四角い板に映る世界が

なんとも味わい深く感じられた。

 

お気に入りのオリーブの木の前で足を止めると、

根元から天辺を見渡し、木に背を向けてちょこんと座り込んだ。

 

「こっちが左。ぼくの左目は二重で、右は一重」

 

声に出して鏡と向き合いながら、

小さな手で左右の頬を片方ずつほたほたと触れた。

 

「こっちが左でこっちが右」

 

何もしていないと

左と右がごちゃごちゃしてくるのでそうやって確かめるのだ。

鏡の中ではもう一人のタユが同じように手を動かしている。

 

それを繰り返していると、

タユには不思議な気持ちが明かりを灯した。

右手で持っていた鏡を、本を開くように右の真横に並べた。

 

自分の姿は直接見えないが、想像すれば分かる。

手を動かせば、横に並べた鏡には自分の姿が映っていて同じ動きをするのだと。

 

「こっちが左、こっちが右…」

 

しかし、その左手をさらに鏡がある右の方に動かしたときだった。

 

「あ!!」

 

手が鏡の縁にすっと触れた。それだけではない。

手が触れたのだ。

右に並べた鏡の左手と自分の左手が。

 

タユは鏡を少し自分の方へ向けてみた。

すると、手が触れているのだ。

同じ方を向いて同じ動きをしているのに、左手同士が触れ合っている。

そして今、鏡の手は右手にさえ見えるではないか。

 

「なんでだ?ぼくは今左手を右にやったのに!右には左がないのに!」

 

大変だ!とタユはすっくとたちあがって走り出した。

 

やって来たのはイーグルの家だ。

 

「イーグル、大変だ!!」

「ふむ」

イーグルは椅子に座って落ち着いた様子で汗のにじむタユを見た。

 

「鏡のぼくは、ぼくと同じじゃない!」

「そんなの知っておる」

「ほら見て!」

 

イーグルの反応にはお構いなしで、タユは目の前に言って鏡を出した。

 

まず正面にかざして見せて、

さっきと同様に本を開くように鏡を横へ並べてみた。

そして左手で鏡の端にペタッと触れた。

 

「見て!ぼくは鏡の中のぼくと手がぶつかってしまうんだ!」

「ほほほ。面白いことに気が付いた」

「なぜなの?」

「そりゃあ、タユがタユじゃないからだ」

「どういうこと?」

「カタチは同じでも住む世界が違うのだよ」

「ぼくはこの中にもいるの?」

「本物はお前だけじゃ」

「じゃあニセモノ?」

「ややこしいのう。貸してみなさい」

 

四角い鏡は家の中をピカピカ映しながらイーグルの手に渡された。

イーグルは鏡を左手でつかんで、その前に右手をかざしてみせた。

 

「タユにはわしの手のどちらが見える?」

「手のなかの方」

 

イーグルの手には茶色の深い線が何本か刻まれていた。

 

「では鏡にはどちらが映っておるか?」

「その反対。手の背中の方」

 

ふむ、とイーグルは頷いた。

タユはそれが何を意図するものなのか分からずに、

だから何なのかを尋ねた。

 

「似て非なるもの。そっくりに見えても本物には成り得ない。

カタチは同じでも、心は同じとは限らない。

外にいる馬や小鳥はどうじゃ?種類が同じなら皆同じに見えんか?」

 

タユはちらりと窓に目を向けた。特に動物がいたわけではないが、頷いた。

 

「うん、みえる」

「そういうことじゃ。

あやつらも皆姿が同じでも、触れてみれば個性がある。

あと何十年かしたら、お前もわしと似たような姿になるやもしれん」

 

「ひげとか?」

「そうだ」

 

イーグルは誇らしげに隠れた顎をさすった。

 

「つまり同じ人間。しかし、こんなにもわしとお前は違うだろう。

鏡はただの姿カタチに過ぎないのじゃ」

 

タユ小さい肩を張って腕を組んで鏡を見つめた。

 

「鏡に触れてみい」

今度は腕を解いて言われるままにイーグルが持つ目の前の鏡に手を伸ばした。

まず先にカチッと爪の当たる音がした。

 

「柔らかいか?」

 

タユは鏡に触れた指の腹に意識を集中させて首を振った。

 

「鏡の中にいるようでいない。体温を感じることは出来ない。手もぶつからない」

「確かに、ぶつかるのは鏡なんだけどさ」

 

タユは口を尖らせた。

 

「鏡はな、己の目を見るときに使うと良い」

「目を見る?」

「どんな心をもっているのか、瞳をみればわかるもんじゃの」

「そうなの?じゃあイーグルの目は見えないぐらい細いけど、

心がみえるの?もっと開いた方が物もよく見えるでしょう?」

 

タユは何度か瞬きして、伸びた眉毛のかかる、

葉っぱを横から見たように細いイーグルの目を覗いた。

イーグルはふぉっと息を出して笑った。

 

「世界がまぶしいだけじゃよ」