「罪には背景が必要なのだよ」
罪と罰には重さと言う尺度がある。
どれぐらい重いのかというのは人間の心で判断されるが、
裁判というものにかかると罪は精査されその罪の重さは人によって、
社会によって、コミュニティによって異なったものになる。
人が死ぬということは自然な断りでありながら、現代ではそれが自然ではなくなってきた。
医療、殺人、自殺、戦争・・・
自由とはいかないが死にも選択がある時代になった。
自分では他者を殺めることを殺人という。
理由がなんであれ罪だといわれ、逮捕される。
しかしその罪と言うのは殺人の動機やいきさつ、その背景によって罰が変わる。
不思議だ。
そこに人間のルールがある。
人々は罪をつくり、罰をつくり、結果になる。
他者を殺めることが罪である、という認識。
では戦争はどうか?
誰が人を殺めているかというと、機械であったり、人であったりする。
その背景にいるのもまた人だ。
誰かが決める、何かが決まる。
戦争という環境では人を殺めることが罪にはならない、ようだ。
過去いろいろあったことはさておき、
いわゆる歴史上、人は争うということを続けてきた。
またそれが仕方なく起こるものだという認識さえあるように感じられる。
戦争で起きた人の死と、戦争ではない場所で起きた人の死はどう違うのだろうか。
細かい言い方は忘れてしまったが、
何十人もが巻き込まれてなくなる事件が起きた時に、ビートたけしさんが
「1つの事件ではなく、1人が死ぬ事件が何十件も起きたと考える」
と言っていたことが印象に残っている。
そうしなければ事の重大さがわからないというような解釈だ。
戦争で失われる命、失われた命。
悲しい人がいるのに、人はそれを繰り返す。
動物の死を悼む人間と矛盾
増えすぎて駆除された動物と山火事で死んでいく動物。
人間の見方は不思議だ。
絶滅という状況を全てが人間が招いたものだとはいえないにしても、
調査して絶滅と決めるのは人間である。
また、増えすぎて人間生活を害するから駆除するというものも人間が決めたことだ。
絶滅の死は悲しい、駆除の死は・・・?
宇宙の理の中
生と死が宇宙の理であるならば、どのような死であるかというその背景は
何につながっているのだろう。
自殺か他殺か、そういう情報が世間に流れて人に、
人の社会に、世界にどんな影響があるだろう。
死というものは人に大きな感情を生み出す。
悲しさ、怒り、その他それぞれ。
死の背景がその感情を強める、また別のものへと変化させる。
死というものがドラマになってそれが楽しまれる時代。
最近そういうものが多いと感じるが、なぜ人気なのか不思議だ。
世界が穏やかに見えるのは情報が眼鏡をかけているからだろうか。
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